2012/7/22 グループ・おりじのこと
2012年7月22日 過ぎ去っていく日々の記録 コメント (4)グループ・おりじ という集団があった。いや、今もあるのかもしれないが、検索してもさっぱりヒットしない。ヒットするのは過去のことばかりで、今はどうなっているのか。
リーダーというか、当時はチーフと呼ばれていたのは、とある著名画家の息子で、近所の子どもたちを集めて遊んでいたのが段々大きくなっていったらしい。
当時住んでいた家から私鉄で二つ三つ四つ(いくつだよ)行ったところに本拠地があった。とはいえ、そんなのがあったとは知らず、たまたま読んでいた週刊朝日にその集団が茨城県真壁郡真壁町真壁でトウモロコシとジャガイモを作るという記事が出ていた。
どうも母に「どうしてもこれに行きたい」と言ったらしいのだが、そこまでの記憶がない。「なんか面白そうだね、行ってみたいね」位のことは言ったのかもしれないが。
母と一緒にそこに行き、そのチーフの面談を受ける。その時に母が「この子がどうしても行きたいといっているので」と言っているのを横で聴いて、「いや、そこまでは」と思った。
今思えば、息子のことを心配した母が参加させたかったのではないか?
この「食料作り」は確か月に一回、土日に茨城県真壁郡真壁町真壁(長いな)まで通って一泊して作業するというものだったような気がする。
常磐線で土浦で行き、今はなくなってしまった関東鉄道筑波線(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E9%89%84%E9%81%93%E7%AD%91%E6%B3%A2%E7%B7%9A)の真壁駅で降りてさらにテクテク歩いて、チーフが知り合いから借りたという畑で焼畑農業をするというものだった。
しかし、このグループ・おりじという集まりは、上下関係というか長年の種種の作業やイベントですでに人間関係が出来上がったグループなので、こういうイベントがあるからといってひょっと参加した俺は当然のごとく友だちなど出来ず、なかなか面白くない作業だったことを覚えている。
なにしろ当時は中学生、気の利いたことも出来ず、こういう集団にいきなり入っていって仲よくなれるような才覚もない。
今もないけれど、当時の方がまだあった。
いや、思い出してきた、いつもの調子でやってたらそれが彼らの気に入らなかったみたいだったんだ。
一回目は大変寒い時期だったと思う。隣接している家の床で毛布にくるまって寝ていたら全員起こされて、「なんで絨毯を敷かないんだ、風邪引くぞ」と起こされた記憶がある。
手元の、この時のことをまとめた本を見ると7月にジャガイモの収穫、8月にトウモロコシの収穫とある。トウモロコシのときは、誰かが花火を打ち上げて、それを合図に収穫するというのがあったが、それがスベってだれも収穫しようとせず、チーフが「ほれ、収穫するんだよ」と声をかけてやっと収穫した。
この焼畑農業はTBSのニュース番組が密着取材していて、毎月テレビで放送されていたのだが、自分が映ったことは・・・ありましたね。しかし、中学の同級生からは何も言われなかった。誰も見ていなかったんだろう。
グループ・おりじの本拠地からはそんなに遠くなかったのだが、しかしこの集団の上の方の人たち(といっても子どもだが)は、繊細でひ弱な文弱の徒のワタシには全然馴染めず、集団内でいじめがあることを公言するようなチーフでもあったので、これ以降、その活動に参加することはなかった。
今考えたら、あの焼畑農業に参加したのはなんだったんだろう。
当時の人の名前など全然覚えていない。みんなあだ名で呼び合っていたこともあるし。
そんなことをふと思い出して、行きつけの図書館で検索してみると、「夢工房の子どもたち グループ・おりじの6000日」全10巻という本が見つかり、その8巻にこの焼畑農業の記録があった。
読んでみても、全然覚えていない。ただ、「おけいちゃん」と呼ばれていた女の子がいて、その子が折原圭子という名前だったことがわかったのみ。
このチーフの名前で検索してみると、「ポンプ」創始者(といっても誰も知らないか)の橘川幸夫のブログが引っかかるのだが、つながりがあったのか。
まぁ、もう、どうでもいいです。
あのグループ・おりじに参加しようとしたことと、参加して月に一回土浦の先のド田舎まで行ったことは、時間の無駄遣いだったと言う話。
その後だったか前だったか、この「おりじ」について書かれていた本を読んでいたら、「オリザ君」というのが参加してきた云々とあり、この人の名前だけよく覚えていた。
後に高校を中退して自転車で旅行に出かけ、戻ってきたらICUに入学して本を出し、今は演出家として名高い平田オリザである。
まぁ、どうでもいいです。自分とは関係ない人の話なんで。
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リーダーというか、当時はチーフと呼ばれていたのは、とある著名画家の息子で、近所の子どもたちを集めて遊んでいたのが段々大きくなっていったらしい。
当時住んでいた家から私鉄で二つ三つ四つ(いくつだよ)行ったところに本拠地があった。とはいえ、そんなのがあったとは知らず、たまたま読んでいた週刊朝日にその集団が茨城県真壁郡真壁町真壁でトウモロコシとジャガイモを作るという記事が出ていた。
どうも母に「どうしてもこれに行きたい」と言ったらしいのだが、そこまでの記憶がない。「なんか面白そうだね、行ってみたいね」位のことは言ったのかもしれないが。
母と一緒にそこに行き、そのチーフの面談を受ける。その時に母が「この子がどうしても行きたいといっているので」と言っているのを横で聴いて、「いや、そこまでは」と思った。
今思えば、息子のことを心配した母が参加させたかったのではないか?
この「食料作り」は確か月に一回、土日に茨城県真壁郡真壁町真壁(長いな)まで通って一泊して作業するというものだったような気がする。
常磐線で土浦で行き、今はなくなってしまった関東鉄道筑波線(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E9%89%84%E9%81%93%E7%AD%91%E6%B3%A2%E7%B7%9A)の真壁駅で降りてさらにテクテク歩いて、チーフが知り合いから借りたという畑で焼畑農業をするというものだった。
しかし、このグループ・おりじという集まりは、上下関係というか長年の種種の作業やイベントですでに人間関係が出来上がったグループなので、こういうイベントがあるからといってひょっと参加した俺は当然のごとく友だちなど出来ず、なかなか面白くない作業だったことを覚えている。
なにしろ当時は中学生、気の利いたことも出来ず、こういう集団にいきなり入っていって仲よくなれるような才覚もない。
今もないけれど、当時の方がまだあった。
いや、思い出してきた、いつもの調子でやってたらそれが彼らの気に入らなかったみたいだったんだ。
一回目は大変寒い時期だったと思う。隣接している家の床で毛布にくるまって寝ていたら全員起こされて、「なんで絨毯を敷かないんだ、風邪引くぞ」と起こされた記憶がある。
手元の、この時のことをまとめた本を見ると7月にジャガイモの収穫、8月にトウモロコシの収穫とある。トウモロコシのときは、誰かが花火を打ち上げて、それを合図に収穫するというのがあったが、それがスベってだれも収穫しようとせず、チーフが「ほれ、収穫するんだよ」と声をかけてやっと収穫した。
この焼畑農業はTBSのニュース番組が密着取材していて、毎月テレビで放送されていたのだが、自分が映ったことは・・・ありましたね。しかし、中学の同級生からは何も言われなかった。誰も見ていなかったんだろう。
グループ・おりじの本拠地からはそんなに遠くなかったのだが、しかしこの集団の上の方の人たち(といっても子どもだが)は、繊細でひ弱な文弱の徒のワタシには全然馴染めず、集団内でいじめがあることを公言するようなチーフでもあったので、これ以降、その活動に参加することはなかった。
今考えたら、あの焼畑農業に参加したのはなんだったんだろう。
当時の人の名前など全然覚えていない。みんなあだ名で呼び合っていたこともあるし。
そんなことをふと思い出して、行きつけの図書館で検索してみると、「夢工房の子どもたち グループ・おりじの6000日」全10巻という本が見つかり、その8巻にこの焼畑農業の記録があった。
読んでみても、全然覚えていない。ただ、「おけいちゃん」と呼ばれていた女の子がいて、その子が折原圭子という名前だったことがわかったのみ。
このチーフの名前で検索してみると、「ポンプ」創始者(といっても誰も知らないか)の橘川幸夫のブログが引っかかるのだが、つながりがあったのか。
まぁ、もう、どうでもいいです。
あのグループ・おりじに参加しようとしたことと、参加して月に一回土浦の先のド田舎まで行ったことは、時間の無駄遣いだったと言う話。
その後だったか前だったか、この「おりじ」について書かれていた本を読んでいたら、「オリザ君」というのが参加してきた云々とあり、この人の名前だけよく覚えていた。
後に高校を中退して自転車で旅行に出かけ、戻ってきたらICUに入学して本を出し、今は演出家として名高い平田オリザである。
まぁ、どうでもいいです。自分とは関係ない人の話なんで。
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