認知症の母殺害、被告に執行猶予つき判決 京都地裁 [朝日新聞]
2006年7月21日 時事ニュース
07月21日付 朝日新聞の報道「認知症の母殺害、被告に執行猶予つき判決 京都地裁」へのコメント:
被告は滂沱の涙、弁護士は「弁護人(自分のこと)よりも被告人のほうがずっと優れた人だ」と言い、検察も気の毒そうに起訴状を読み上げ、傍聴席からはあちこちからすすり泣きが漏れた、らしい。
京都のアパートに母子二人暮らしで、認知症の母親の病状が悪化したため、介護のために勤めを辞めた。
生活保護を受けようと福祉事務所(だったよな)に行ったら、「あなたは失業保険(正確には雇用保険)を受けているからダメ」と言われた。
そこで一言、「失業保険の支給が終わったら生活保護が申請できます」と言えば、こんな悲劇は起こらなかったのだ。
紙おむつを買う金にも困り(自治体によっては、申請すれば紙おむつをくれるところがある)、アパートの家賃も払えなくなった。
「もはやこれまで」と思った息子は、アパートの部屋をピカピカに磨き上げ、大家と親戚宛の遺書をしたため、母を車椅子に乗せて、かつて父親と三人で過ごした京都の街を一日中見て回る。
母親に「もう生きていけない」と伝え、首を絞める。そのあと、自殺しようと手首を切ったり、首を吊ったりするが死に切れなかったという。
そのときの所持金7千円。
裁判での球形は懲役3年、判決は懲役2年6ヶ月執行猶予3年。
公判では、「生まれ変われるのなら、またこの母の子供として生まれたい」と語ったという。
裁判官は、判決言渡のときに、「日本の生活保護行政のあり方が問われている」と述べ、被告人に励ましの言葉をかけたという。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200607050054.html
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200606210076.html
裁判や、法律というものは、部外者からみると堅苦しいもののように思えることがあるが、そういうことばかりでもない。
今回の裁判でも、法定刑は6カ月以上7年以下のところ、3年を求刑したところは、検察の立場は守りながらも寛大な判決を求めているようだ。
今回の事件で激しく問われているのは、福祉事務所の対応である。
特にお金のもらえる申請に多いのだが、役所は、具体的にアドバイスしてくれたり、積極的に広報することは殆どない。
申請にくれば事務手続きをするが、教えてくれない。
それを役人(というか小役人だな)に文句いうと、「だって教えるのは仕事じゃないもん」と言い出す。
どんな申請ができるのか、なんて、素人にわかるわけないだろうよ。あんたらプロ(のはず)なんだから、どんな場合にはどんな申請ができることを教えてしかるべきじゃないのか、と思う。
しかし、彼らにとっては、聞かれたことには答えるが、それ以上は仕事じゃないらしい。
今日明日くらいは、この伏見福祉事務所には苦情の電話が殺到していると思うが、役人根性というのはそんなことでは改まらない。
今福祉事務所にいる人間は、もともと福祉の仕事をしたいというのは(多分)殆どおらず、定期人事異動で福祉事務所にいるだけである。3年経てば別の部署に異動していく。それはたとえば財政関係の部署だったり、議会事務局だったり、とまったく関係がない。
それぞれの部署での日々を大過なく過ごせればまた次の部署に、時には少し役職が上がって異動していく。その繰り返しだ。
少し前に幼児虐待が新聞などを賑わせたことがあった。
虐待の事実があって児童相談所に相談したのに、結局何もせずに親やその交際相手に殺されてしまったことが何回もあった。
その時の児童相談所の所長などは、もう定年も近く、大過なく数年を過ごせば恩給がもらえることしか考えてない。
顔を見ればだいたいわかる。
やはり定期異動で児童相談所に来たのだ。業務の引き継ぎはあっても、ノウハウの引き継ぎはなされていないのではないだろうか。
仕事に専門性がないから、業務に対して積極的にもならない。
行政にはいろいろなことができるはずなのだが、業務遂行に責任を持とうとしないから、何もしない。で、無実の救えたはずの幼児のいのちが奪われのを見過ごすことになる。
栃木県で、バツイチの男同士が同居していて、その同居相手に兄弟が橋から投げ落とされて殺された、という事件があった。あのときに児童相談所の所長は会見でお詫びをしていたが、あれだって「こう言っとけば文句でないだろう」と言わんばかりの形ばかりのものだった。
以前、東京で母親と障害のある息子の親子が餓死したという事件があった。池袋近辺の都会で餓死ということでセンセーショナルに取り上げられたが、あの時も、「人さまに迷惑をかけたくない」という母親の思いで、生活保護はおろか、民生委員にも相談せず、近所の人にもそんな素振りは見せなかったらしい。
そのときにも、近所の人は一言相談してくれれば、という思いがあっただろうと思う。
今回の判決では、裁判官は「他人に迷惑をかけてはいけないとの信念と姿勢を、かたくなであると非難するのは正しい見方とは思われない」と述べた。
これは、終戦直後に餓死した裁判官のことを想起しての発言だろうと思う。今の若い人は知らないだろうが(いやオレも若い人だが)、終戦直後の食糧難の時代、闇米などが横行している時期に、それらには一切手を出さずに餓死した裁判官がいたのだ。
こんなふうに困った場合、頼れるところは行政しかないのだが、その行政の担当者がきちんとサービスを提供しない(できない)。
残念ながらこういうことはどこでもある。
制度はあっても、運用する担当者のレベルが低いと、きちんとした行政サービスを受けられなかったりするわけだ。今回のこの事件でも、受けられたはずの行政サービスが受けられず、不遇の環境で実の母親に手を下さざるを得なかった被告の心中を察するにあまりある。
役所には替わりがないからこまる。会社や店や病院なら、「ここは気に入らないから別のところに行こう」と言えるが。
また、役所の窓口で担当者を怒鳴りつけるくらいの元気がある人なら、びびった担当者がいろいろと気をつかうこともあるが(かつて某法務局で目撃した)、一般的にはそういうことはあまりしないだろう。
こうやって母親を殺さなければいけないところにまで追い詰められたひとがいても、担当の役所、窓口で担当した者が責任を問われることもなく、責任を感じることもなく、謝罪することもない。朝日新聞に出ていた福祉事務所のコメントに、紋切り型の責任逃れを感じない人はいないだろう。
黒澤明の「生きる」という映画は、名作と讃えられることが多いが、あの映画は、それまで平々凡々と日々なにもせずに生きていた公務員が、死を目前にしてやけになり、やっと公園を造ることに生きがいを見いだす、という映画である。
志村喬演じる主人公の葬式で、「明日からちゃんと働こう(もうちょっときちとしたセリフがある)」と盛り上がった役人仲間は、翌朝、そんな宣言をしたことなどなかったかのように、市民からの苦情をたらい回しにする。
仕事しない役人に対しての強烈なメッセージを込めた映画だと思うんだが、あまりそういうことは話題にならない。
黒澤明が白黒で「生きる」を撮ってから何十年もたつが、この国のお役人の思考回路と行動パターンはまったくと言っていいほど進歩していない。
そのくせ、身分は保証され、休日、有給休暇をとっても非難されたり注意されたり暗にとらない様にさとされたりすることもなく、年間3回ボーナスがあり、しかも夏冬それぞれ3カ月くらい出るらしい。オレなんか×.×カ月だぞこの野郎。
・・・・・取り乱しました。
とある知り合いの公務員は、高卒で入ったくせに、ベンツ乗ってやがるし、とある役所の建築指導関係の部署の人間は、ほぼ全員が金色のロレックスをしている。
出自がいやしかろうがなんだろうが、役所に入ってしまえば自分の身は安泰という世界である。
今日のカウンタ13541
被告は滂沱の涙、弁護士は「弁護人(自分のこと)よりも被告人のほうがずっと優れた人だ」と言い、検察も気の毒そうに起訴状を読み上げ、傍聴席からはあちこちからすすり泣きが漏れた、らしい。
京都のアパートに母子二人暮らしで、認知症の母親の病状が悪化したため、介護のために勤めを辞めた。
生活保護を受けようと福祉事務所(だったよな)に行ったら、「あなたは失業保険(正確には雇用保険)を受けているからダメ」と言われた。
そこで一言、「失業保険の支給が終わったら生活保護が申請できます」と言えば、こんな悲劇は起こらなかったのだ。
紙おむつを買う金にも困り(自治体によっては、申請すれば紙おむつをくれるところがある)、アパートの家賃も払えなくなった。
「もはやこれまで」と思った息子は、アパートの部屋をピカピカに磨き上げ、大家と親戚宛の遺書をしたため、母を車椅子に乗せて、かつて父親と三人で過ごした京都の街を一日中見て回る。
母親に「もう生きていけない」と伝え、首を絞める。そのあと、自殺しようと手首を切ったり、首を吊ったりするが死に切れなかったという。
そのときの所持金7千円。
裁判での球形は懲役3年、判決は懲役2年6ヶ月執行猶予3年。
公判では、「生まれ変われるのなら、またこの母の子供として生まれたい」と語ったという。
裁判官は、判決言渡のときに、「日本の生活保護行政のあり方が問われている」と述べ、被告人に励ましの言葉をかけたという。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200607050054.html
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200606210076.html
裁判や、法律というものは、部外者からみると堅苦しいもののように思えることがあるが、そういうことばかりでもない。
今回の裁判でも、法定刑は6カ月以上7年以下のところ、3年を求刑したところは、検察の立場は守りながらも寛大な判決を求めているようだ。
今回の事件で激しく問われているのは、福祉事務所の対応である。
片桐被告が相談に訪れていた、生活保護の窓口となる京都市伏見福祉事務所保護課の担当者は個別のことには答えられないとしたうえで、「最低でも30分以上は話を聴き、相応のアドバイスはしているはずだ。あくまで本人からの申請主義なので、要件が整った時に来てもらえないと、こちらから申請してくれとは言えず対応には限界がある」と話した。
特にお金のもらえる申請に多いのだが、役所は、具体的にアドバイスしてくれたり、積極的に広報することは殆どない。
申請にくれば事務手続きをするが、教えてくれない。
それを役人(というか小役人だな)に文句いうと、「だって教えるのは仕事じゃないもん」と言い出す。
どんな申請ができるのか、なんて、素人にわかるわけないだろうよ。あんたらプロ(のはず)なんだから、どんな場合にはどんな申請ができることを教えてしかるべきじゃないのか、と思う。
しかし、彼らにとっては、聞かれたことには答えるが、それ以上は仕事じゃないらしい。
今日明日くらいは、この伏見福祉事務所には苦情の電話が殺到していると思うが、役人根性というのはそんなことでは改まらない。
今福祉事務所にいる人間は、もともと福祉の仕事をしたいというのは(多分)殆どおらず、定期人事異動で福祉事務所にいるだけである。3年経てば別の部署に異動していく。それはたとえば財政関係の部署だったり、議会事務局だったり、とまったく関係がない。
それぞれの部署での日々を大過なく過ごせればまた次の部署に、時には少し役職が上がって異動していく。その繰り返しだ。
少し前に幼児虐待が新聞などを賑わせたことがあった。
虐待の事実があって児童相談所に相談したのに、結局何もせずに親やその交際相手に殺されてしまったことが何回もあった。
その時の児童相談所の所長などは、もう定年も近く、大過なく数年を過ごせば恩給がもらえることしか考えてない。
顔を見ればだいたいわかる。
やはり定期異動で児童相談所に来たのだ。業務の引き継ぎはあっても、ノウハウの引き継ぎはなされていないのではないだろうか。
仕事に専門性がないから、業務に対して積極的にもならない。
行政にはいろいろなことができるはずなのだが、業務遂行に責任を持とうとしないから、何もしない。で、無実の救えたはずの幼児のいのちが奪われのを見過ごすことになる。
栃木県で、バツイチの男同士が同居していて、その同居相手に兄弟が橋から投げ落とされて殺された、という事件があった。あのときに児童相談所の所長は会見でお詫びをしていたが、あれだって「こう言っとけば文句でないだろう」と言わんばかりの形ばかりのものだった。
以前、東京で母親と障害のある息子の親子が餓死したという事件があった。池袋近辺の都会で餓死ということでセンセーショナルに取り上げられたが、あの時も、「人さまに迷惑をかけたくない」という母親の思いで、生活保護はおろか、民生委員にも相談せず、近所の人にもそんな素振りは見せなかったらしい。
そのときにも、近所の人は一言相談してくれれば、という思いがあっただろうと思う。
今回の判決では、裁判官は「他人に迷惑をかけてはいけないとの信念と姿勢を、かたくなであると非難するのは正しい見方とは思われない」と述べた。
これは、終戦直後に餓死した裁判官のことを想起しての発言だろうと思う。今の若い人は知らないだろうが(いやオレも若い人だが)、終戦直後の食糧難の時代、闇米などが横行している時期に、それらには一切手を出さずに餓死した裁判官がいたのだ。
こんなふうに困った場合、頼れるところは行政しかないのだが、その行政の担当者がきちんとサービスを提供しない(できない)。
残念ながらこういうことはどこでもある。
制度はあっても、運用する担当者のレベルが低いと、きちんとした行政サービスを受けられなかったりするわけだ。今回のこの事件でも、受けられたはずの行政サービスが受けられず、不遇の環境で実の母親に手を下さざるを得なかった被告の心中を察するにあまりある。
役所には替わりがないからこまる。会社や店や病院なら、「ここは気に入らないから別のところに行こう」と言えるが。
また、役所の窓口で担当者を怒鳴りつけるくらいの元気がある人なら、びびった担当者がいろいろと気をつかうこともあるが(かつて某法務局で目撃した)、一般的にはそういうことはあまりしないだろう。
こうやって母親を殺さなければいけないところにまで追い詰められたひとがいても、担当の役所、窓口で担当した者が責任を問われることもなく、責任を感じることもなく、謝罪することもない。朝日新聞に出ていた福祉事務所のコメントに、紋切り型の責任逃れを感じない人はいないだろう。
黒澤明の「生きる」という映画は、名作と讃えられることが多いが、あの映画は、それまで平々凡々と日々なにもせずに生きていた公務員が、死を目前にしてやけになり、やっと公園を造ることに生きがいを見いだす、という映画である。
志村喬演じる主人公の葬式で、「明日からちゃんと働こう(もうちょっときちとしたセリフがある)」と盛り上がった役人仲間は、翌朝、そんな宣言をしたことなどなかったかのように、市民からの苦情をたらい回しにする。
仕事しない役人に対しての強烈なメッセージを込めた映画だと思うんだが、あまりそういうことは話題にならない。
黒澤明が白黒で「生きる」を撮ってから何十年もたつが、この国のお役人の思考回路と行動パターンはまったくと言っていいほど進歩していない。
そのくせ、身分は保証され、休日、有給休暇をとっても非難されたり注意されたり暗にとらない様にさとされたりすることもなく、年間3回ボーナスがあり、しかも夏冬それぞれ3カ月くらい出るらしい。オレなんか×.×カ月だぞこの野郎。
・・・・・取り乱しました。
とある知り合いの公務員は、高卒で入ったくせに、ベンツ乗ってやがるし、とある役所の建築指導関係の部署の人間は、ほぼ全員が金色のロレックスをしている。
出自がいやしかろうがなんだろうが、役所に入ってしまえば自分の身は安泰という世界である。
今日のカウンタ13541
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