2016/7/11 永さん逝く
2016年7月11日 ラジオ思えばずいぶん昔からこの人の話を聞いてきたなぁ。で
三代目店主氏のように「誰かとどこかで」 『七円の唄』も聴いてきたし、平成に入ってからは「土曜ワイドラジオ東京」を永いこと聴いていた。
土曜の朝、ってどっかに遊びに行ってそうなものだが、毎週聴いていたような気がする。
テレビでは使い物にならなかった、外山恵理アナウンサーを忍耐強く使い続け、「辞めさせろ」という投書が来たら「長い目でみてください」と返事を書いて、いつの間にか「永さん専門の介護士」とまで言われるようになった。
今から30年くらい前のことだけど、とあるイベントで受け付けのアルバイトしてたら、永さんが聴きにやってきた。
途中で帰ったんだけど、思ったより背が高い人で、驚いた記憶がある。
生まれ育ったのは上野の外れの「最尊寺(さいそんじ)」で、つい最近まで年に4回、「永住亭(ながすみてい)」という落語の会があって、一度だけ行ったことがある。
少し遅れて行ったら、永さんが前説やってて、ちょっと驚いた。
パーキンソン病を患ってからのことで、そのときはリハビリの話をしていて、
リハビリに行って歩行訓練しようとしたら、理学療法士が「はい、この曲に合わせて歩いてください、知ってますか? はい、うーえーをーむぅーいーてー、あぁるこぉーおー」という話に笑いが起こる。
この話は後日、テレビかラジオでもしていたな。
※まさか知らない人はいないと思いますが、「上を向いて歩こう」を作詞したのは永さんです。
建築現場で曲尺や、裁縫で鯨尺が使えるのは(合ってるよね?)、全部この人のおかげです。
国鉄民営化に反対して「遠くへ行きたい」を降板したり、言うべきことは言う人でした。
若いころは、この人みたいに始終旅をして暮らしたいと思ってました。日本中に知り合いがいて。
日本のテレビの草創期から活躍して、放送作家という職業の草分け。
マルチタレントとはこの人のこと。
ラジオで色々な話をしてくれました。
最後にテレビで観たのは、巨泉と一緒に出た「徹子の部屋」。
最後の最後まで、色々と教えていただいてありがとうございました。
せきこえのどに浅田飴。
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三代目店主氏のように「誰かとどこかで」 『七円の唄』も聴いてきたし、平成に入ってからは「土曜ワイドラジオ東京」を永いこと聴いていた。
土曜の朝、ってどっかに遊びに行ってそうなものだが、毎週聴いていたような気がする。
テレビでは使い物にならなかった、外山恵理アナウンサーを忍耐強く使い続け、「辞めさせろ」という投書が来たら「長い目でみてください」と返事を書いて、いつの間にか「永さん専門の介護士」とまで言われるようになった。
今から30年くらい前のことだけど、とあるイベントで受け付けのアルバイトしてたら、永さんが聴きにやってきた。
途中で帰ったんだけど、思ったより背が高い人で、驚いた記憶がある。
生まれ育ったのは上野の外れの「最尊寺(さいそんじ)」で、つい最近まで年に4回、「永住亭(ながすみてい)」という落語の会があって、一度だけ行ったことがある。
少し遅れて行ったら、永さんが前説やってて、ちょっと驚いた。
パーキンソン病を患ってからのことで、そのときはリハビリの話をしていて、
リハビリに行って歩行訓練しようとしたら、理学療法士が「はい、この曲に合わせて歩いてください、知ってますか? はい、うーえーをーむぅーいーてー、あぁるこぉーおー」という話に笑いが起こる。
この話は後日、テレビかラジオでもしていたな。
※まさか知らない人はいないと思いますが、「上を向いて歩こう」を作詞したのは永さんです。
建築現場で曲尺や、裁縫で鯨尺が使えるのは(合ってるよね?)、全部この人のおかげです。
国鉄民営化に反対して「遠くへ行きたい」を降板したり、言うべきことは言う人でした。
若いころは、この人みたいに始終旅をして暮らしたいと思ってました。日本中に知り合いがいて。
日本のテレビの草創期から活躍して、放送作家という職業の草分け。
マルチタレントとはこの人のこと。
ラジオで色々な話をしてくれました。
最後にテレビで観たのは、巨泉と一緒に出た「徹子の部屋」。
最後の最後まで、色々と教えていただいてありがとうございました。
せきこえのどに浅田飴。
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